〈神谷瑞樹 対 高松信夫 ダイアローグ・ギルティ開始〉
信夫は震えている手で拳銃を握る。震えは拳銃にまで伝わり、シリンダーの中の一発の弾丸もカタカタと鳴きだす。
会場内は昨日と全く変わっていない。昨日死んだ人間の死体は片付けられ、床にぶちまけられた血も綺麗に拭き取られている。
先行は私だった。私は何の躊躇いも無く、自分のこめかみに銃口を向けた。それを震えの止まらない信夫がじっと見つめている。蔑むような目をしていた。でも、私は笑った。
「このゲームが終わったら、私の事なんかさっぱり忘れてね」
遺言のつもりで言った。人差し指に力を込める。信夫は僅かに口を開けて何かを言おうとする。しかし、その口から吐き出される言葉を待つ前に私は引き金を引いた。
「‥‥」
弾丸は発射されなかった。乾いたカチリという音が、一瞬信夫の声をかき消す。音が消えると、再び信夫の嗚咽が聞こえ始める。擦れて、渇き始めた嗚咽。
私は拳銃を降ろすと、椅子に腰掛けた。
「‥‥あなたの番よ」
その言葉で、信夫の嗚咽がぴたりと止まった。
信夫は何度も額の脂汗を拭い、拳銃を握り直す。荒い息継ぎはいつまでも終わる事無く、心臓の高鳴りを私に報せている。
「私は後悔なんかしないわ。躊躇う事なんて無いのよ」
優しく、母が子を諭すような口調で言う。私は待った。彼が私に拳銃を向けてくれる事を。
しかし、その必要は無かった。彼は涙に濡れた顔をキッと真顔にすると、
「‥‥私には借金がある。六百万だ。二百万ではとても足りない」
と言ったと同時に自分に向けて引き金を引いた。私があっと声を上げる瞬間に、ハンマーはシリンダーに突き刺さった。そして、弾丸ではなく、鋭い空気を撃ちだした。
信夫の瞳は充血していた。息をしていなかった。衝動的とも言える行為に、体が硬直していた。
しばらくして緊張が解けたのか、信夫は腰が抜けたように椅子にへたり込んだ。今の行為で持てる気力全てを使い果たしたかのようだ。私は口を半開きにしながら、その数秒の光景を見入っていた。
「‥‥」
彼はもう私に銃を向ける事は無いだろう。借金の話が本当か嘘かは分からない。でも、どんな嘘や本当を言おうとも、彼の心は変わらない。だったら、借金の真偽などどうでもいい。
もう私が言える事は何も無い。私が祈ろうと現実は変わらない。自分と同じような人が増えたとしても何も出来ない。なら、黙って受け入れるしかない。全てを運に任せるだけだ。
「‥‥これだったら、例えあなたが生き残っても、気兼ねなく生きていけるわよね」
私は立ち上がり、自分のこめかみに銃口を押しあて、引き金を引いた。お金という物はこういう人が持ってこそ役に立つのだろう、と指に力を入れ、ハンマーがシリンダーを叩くまでの刹那の間思った。
「‥‥」
「‥‥」
三回目の乾いた音だった。私は再び椅子に腰掛けた。悔しいとか、そういう思いは無かった。もうそういう事を考えるのも面倒臭くなった。運命の女神しか知らない事をあれこれと考えるなんて、疲れた。
信夫は私と同じように自分のこめかみに銃口を当てた。もう立ち上がろうとしない。
私はただぼんやりと彼を眺めていた。信夫は瞳を閉じ、汗が流れるのすら感じていないような無表情になる。手だけが異様に震えているのが変に見える。
「‥‥何故、私がこんな目に遭わなくてはいけないのだろう、と毎晩思うんだ。世の中には何の痛みも苦労も無く生きている人がいるのに、私はこんな薄暗い部屋で命を賭けている。ははっ、何だか馬鹿げているよな。この差は一体何だろう」
「皆違うからよ」
「いい事をしていればいい人生を送れると思っていた。悪い事をしていれば、いい人生は送れないと思っていた。でもやっぱりそうじゃなかったみたいだ」
鼻水を強くすすった信夫は、小さな絶叫と共に引き金を絞った。その瞬間だけ、この空間の全ての動きがスローモーションになって見えた。自分の思考すらもスローになり、死ぬとか生きるとかそういう事は考えなくなり、単純に目の前がゆっくりと動くのが面白く見える。
そして、スローモーションは終わりを告げる。信夫は身動き一つしない。音がしたのかどうか、それすら判断出来なかった。だが、信夫は何回か瞬きをした。
四回目の空砲だった。
「‥‥ははっ」
信夫はしゃっくりのような笑いを漏らすと、空を仰いだ。
二階席の騒めきが激しくなっていく。騒めきが信夫の声を消していく。嫌でも、騒めきが耳に入ってくる。
私は何故か、不意に小学校三年生の時の夏休みの事を思い出した。家族で祖母の家に泊まりに行った時の思い出だ。
祖母の家の裏には大きな森林があり、虫取り網だけを持って冒険へ出掛けた事があった。何を取るかなんて考えていなかった。ただ、夢中になって森の中を駆けずり回った。その時、私は手の届く所に枝の生えている木を見付け、その木によじ登った。
目的なんて無かったのに、登る事が楽しかった。手をのばせば太陽さえ掴めるような、そんな高揚感に満ちていた。でも、足を滑らせて地面に落ちた。痛くはなかった。ドツンと音がして、それから自分がどうなったのかを確認しようと起き上がり、辺りを見回した。その時、空は木に登る前と同じ色をしていた。それを見た時、私は笑った。
私はこんなにちっぽけな存在なのに、何をしているのだろう。そう思って笑った。
今、あの時と同じような事を考えていた。ちっぽけなくせに、私は何をやっているんだろう。馬鹿みたいだ。誰が頼んでるわけでもないのに、藻掻いて、気が狂いそうになって、涙を流して。本当に馬鹿みたいだ。ああっ、そうか。馬鹿だからいるのか。こんな所に。
「‥‥」
じんわりと指の感覚が伝わってくる。引き金を引いた感覚が。だが、私の意識はあった。空砲だった。私の拳銃の三回目の空砲だった。
そう言えば、あの空はどんな色をしていただろう。そんな事を考えながら、私は椅子に腰掛けた。
ゲームは淡々と進む。一人にかかる時間は僅かに一分かそこらだ。試合が始まって五分。今まで五回の空砲が発射された。私はバカだから、確率なんてものは分からない。でも、分かる事もある。このままゲームが進んだら、後七分以内に決着がつく。
拳銃をじっと見つめたまま、信夫は椅子から立ち上がった。もう汗も出ていない。時間が長すぎるのだ。緊張の糸などすぐに切れてしまう。なるようになる。もうそんな事を思うしかなくなる。私も信夫も、そうだ。
「‥‥不思議な気分だよ」
自分のこめかみに銃口を押しあて、信夫が呟く。
「どんな気分なの?」
「何だか、自分は絶対に勝てるような気がするんだ。それに、もう緊張もしなくなった。
凄くリラックスしているんだ。風呂から上がって、冷えたビールを喉の奥に流し込むみたいな、そんな心地良さまで感じるんだ」
信夫は微かに笑っていた。まるで何年も見つからなかった落とし物を偶然見つけた時のような、そんな笑い。
笑みを携えたまま、信夫は人差し指に力をいれる。キチキチと引き金が引かれていく。
「家に帰ったら、まずは風呂に入ろう。それからご飯にしよう。ご飯は何がいいかな? やっぱり好物の天ぷらがいいかな」
「私、海老の天ぷらが好きよ」
「ははっ、まだまだ子供だな。私はきすが好きなんだ。齧った時にモワッとした湯気が立ち昇るのが最高にいいんだ」
「美味しそうね」
「そうなんだ。少し薄めのつゆに目一杯つけて、一気に尻尾までかぶりつく。それで、半分くらい飲み込んだら、きんきんに冷えたビールを流し込む。あの時のきすの旨さと言ったらないよ。本当に」
鮮血が飛び散った。真っ赤な血が信夫の頭から吹き出たと同時に、バアン、という耳を貫くような銃声がこだました。
音が無くなると、室内は誰もいないかのように無音になった。信夫が倒れる。目は見開き、手や足の先はまだ微かに動いていた。そして、死んでも、その笑顔を崩さなかった。
「‥‥」
私は他人事のように思った。
ああっ、また私みたいな人が生まれてしまった。ゲームが始まる前に、あれだけ強く思っていた事が、今は心のどこかでプカプカ浮いているだけの存在になっていた。
「勝者、神谷瑞樹。神谷瑞樹は自分に向けて三回引き金を引いたので、プラス三百万、よって賞金は千三百万とする」
二階席から沸き上がる小さな歓声を完全にかき消すように、いつもの低い声が聞こえた。扉が開かれ、ビニール袋を持った高瀬が現われる。高瀬は信夫の死体を僅かに見ると、すぐに視線を私に戻し、死体の脇を通って目の前に立った。
「おめでとう。あなたの勝ちだ」
高瀬はビニール袋を開けて、中身を見せる。本当に千三百万あるのかは分からないが、間違いなく本物の札束が入っていた。私は立ち上がると椅子の上に拳銃を置き、高瀬を見返した。
「一つお願いがあるんだけど、いいかしら?」
「何だ?」
「このお金を全額、あの人の家族に渡してほしいんだけど」
そう言って、私は信夫を指差した。信夫は私を見る事無く、笑顔のまま宙を見つめている。
「いいのか?」
「別にお金には困ってないから。あの人の家族の住所、分かってるんでしょ?」
「ああっ」
「ならお願い。賞金をどう使おうが私の勝手なんだから、文句は言わせないわ」
高瀬は首を曲げて、死体を見つめる。その死体を、扉近くにいた二人の男が外へ運びだそうとしている。死体の脇腹を抱え、引きずる。血の痕が床に線となってついた。
「分かった。約束しよう。絶対にこの金はあいつの家族の元に届ける」
「ありがと」
私は高瀬の頬にキスをすると、会場から出た。